リテラシー

最近の日本の「テレビ」というメディアは低俗すぎるのでは?・・・と思う。
年中、バラエティ番組ばかり見せられると、視聴者をバカにしてるのか!・・・と感じる。
画像


視聴者の中には、メディアの取材力や事実の検証力より能力が優れている人たちが増えている。
一昔前と違って「知識の逆転」現象が起きている。
携帯を使いこなせない大人たちが、子供たちへ有害なサイトにアクセスできないように制限(フィルタリング)をかけようとしていることと似ている。
「規制」による修正よりも「有用な活用」による展開を「概念」として持つべきだ。
画像
日本ネットワークインフォメーションセンターは、一部の政党議員が、青少年ネット規制法案を国会への議案提出の準備を進めていることに関して、法案内容の妥当性や有効性に懸念を表明している。

検討されている法案は、ネット上の情報の一部を「有害情報」と認定し、事業者に閲覧の制限を義務付けて社会的悪影響を防ぐというものだ。
法案の趣旨には賛成だが、「有害」の判断基準は、社会的な共通認識が確立されてなく、判断機関の主観的裁量となり、認定の合理性や妥当性が果たして保たれるのか?と懸念される。
画像

青少年を有害情報から隔離する目的を逸脱して、自由な情報の流通を妨げる恐れもあると指摘している。
ヤフーやマイクロソフト社はすでに法案への反対を表明している。

企業と教育関係者による対策を進め、法規制よりも民間の青少年保護の取組みを支援するよう提案している。
青少年を守ってあげたいのは賛同できるが、それは情報からの「隔離」ではなく、情報を正しく判断、活用する「リテラシー」の能力を向上させることの方がより重要だと考える。

規制の対象が「有害な社会環境」とし、それが「誘発し、若しくは助長する」ものとして、性と暴力の逸脱行為に加え、「不良行為」を例示しているが、「有害」と青少年の「逸脱行動」とを関係づける表現と行動の因果関係(どのような表現が逸脱行動の原因であるか)を科学的に定義することは不可能だ。
画像
アンパンマンでさえ、バイキンマンをパンチでやっつける暴力行為で正義を守るのに。
・・・ならばストーリーは、
「バイキンマン君、話し合いで解決しようよっ!」・・・ということでなければならない。

迷惑メールへの規制は賛成だが、有害な画像を所持しているだけでも「違法」になるようで・・・
う~ん、行き過ぎだろ、そりぁ。
デオッちのブログなんて、一発で「有害認定」になってしまう・・・。

400億ページに達するというインターネットwebを含めて、メディアは多様化・多チャンネル化した。
有害な情報は出す方が悪いのは当然であるが、受け取る側の態度や姿勢に問題がない訳ではない。
有用な情報を選別し活用する能力を身に付ける・・・
そういった教育がなされないまま「規制」だけで物事を解決してはならないと考える・・・
画像
世の中、規制だらけになると、やがては自由度を失ない、それは可能性の芽を摘んでしまうことにもなってしまう。
見通しの悪い交差点を作っておいて、事故が起こると「前方不注意」で検挙するようなもので、問題の本質は別のところにあるように思えるのだが・・・

かつて日本は、情報統制され、命をも国家に捧げることを潔しとし、特攻して戦死した多くの若者がいた国だ。
善悪、道徳・背徳などは市民が決めるもので、少なくとも、有害かどうかの判定は国家が介在すべきではない。裁判員制度だって国民の民意や常識を司法に反映しようとしているのだし・・・
国家が国民を二度と再び情報操作してはならない・・・それだけは行うべきではない。
画像

ワンクリック詐欺、架空請求メール、暴力シーンの動画、過激なSEX描写、児童ポルノ・・・いくら規制しても次々と現われてくるものだ。
規制も一つの手段だが、情報の受け手のリテラシー教育が進まなければ意味がない。

メールだけではなく、最近のテレビのように「バカ騒ぎ」の映像ばかり見せられても、想像力や思考力が低下してしまう。
表現の自由を楯にとり、情報の信憑性や思想の中立性を欠いた、お構いなしの無責任な報道も少なくないかも知れない。
物心ついた頃からテレビがあった世代(団塊の世代)においては、テレビや新聞は「絶対」で、テレビや新聞などマスメディアの情報を鵜呑みにして信用してしまう傾向が強い。
画像

読売新聞の調査では、新聞を「大いに信頼できる」または「だいたい信頼できる」と答えたのは、50歳代が最も高く、なんと92%を占める。
最も低い20歳代でさえ83%という結果だ。

こうした傾向への警鐘は、インターネットの批判と同様に、50年も前からされてきたものの、「メディア・リテラシー」という概念や教育が無かったため、メディアの発する情報を読み、聞き、見て判断する訓練は、教育ではなく自主的に行わなければならなかったのが事実だ。
メディアの番組制作能力や正当性を信じて疑わない・・・これは危ない状況だ。
画像
「大殺界」がどうのこうのと、番組を降板した占い師の「おばさん」もいるが、前世の祖先とともに生きて幸せになる・・・などと根も葉もないこと(単なる個人的宗教観)を堂々と正しいことのように報道すること自体がおかしくないだろうか?
せめて「個人の見解である」くらいのキャプションを表示すべきで、人間の生き方を、このような非科学的な「占い」で、あたかも正しいことのように報道してはいけないと思うのである。

「占い」なら半信半疑で見ているだろうからいいが、企業や政治家の「偽装」や「隠蔽」などを指摘するメディアを無条件で信用することは、新聞を信じて疑わないのと同様に、正しいことのみを報道していると視聴者自身が「勘違い」している危険があることを、視聴者は常に意識しておかなければいけないと思う。
画像
真実は人の数だけあり、自分の中で作り上げられたイメージは、その時点で既に事実とは偏ったものである場合が多い。
事実は一つしかないが、どういう形で伝えるか、誰が知り、誰が伝え、誰に伝わるかによって、知る事実の全体像や本質は変わってくる。
特に日本人は、弱い者が強い者に戦いを挑むことが好きな国民性があり、「印象操作」されやすいので要注意だ。
画像
報道、解釈の正当性について視聴者自身で検証する「メディア・リテラシー」教育が子供だけでなく、大人にも必要なものではないかと言える。

メディアが自社の不祥事・問題について報道することほとんどないが、ライバル企業の不祥事に対しては執拗な報道をする。
メディアが報道自体を控えてしまえば、そのメディアしか利用していない人は、問題に気付く事が難しい。
メディアも営利を目的とする企業であるから、視聴率や販売部数を優先しなければならない利害が存在することを、視聴者が自分自身で受諾しながら考えていく必要がある。

ある事象についての理解のために、多くのメディアから情報を入手し、正しいかどうかを検証しなければ、最近のメディアの報道は信用性が低くなっているように思えてならない。
複数のメディアを利用し、他の局のテレビ・ニュースも見る、他の新聞社の新聞も読む、書籍やインターネットの情報も参照するなどで、ある程度まで事象を理解し本質を見極めることができる。
画像
こうした態度の厳しい選別の目を持った視聴者が増える一方で、政府や企業の広報リリースを頼りにするあまり、記者の取材能力が低下しているのではないか?
「情報源」としての選択の低下が、活字離れにいっそう拍車がかかり経営は圧迫されることになる。

メディア報道の視聴率稼ぎの「印象操作」に踊らされないようにしたい・・・
彼らの使命は事実を伝えることだ。

画像
 お願い  ランキングに参加中です。Please Push! ←

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック